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棟札発見!

先日(3月13日)に本殿修復の状況確認のため、宮大工さんとお話をしていると、大工さんから「棟札がしまってありますね」という言葉が・・・

「ん?どこに?」と思って聞いたところ内陣の御扉下のスペースに、とのこと。

そんなところにスペースがあることは今まで知らなかったので、大工さんに開けてもらったところ、2枚目の写真のように数枚の棟札が隠して?ありました。

棟札を取り出して簡単に確認したところ江戸時代中期から後期にかけての本殿屋根修繕の棟札でした。

玉田神社で以前から確認できている棟札は古い物から順番に「天正14年(1586)の神社建立之営遷宮」、「寛永元年(1624)当社御造営」の2枚で、あとは明治以降の屋根修繕の棟札でした。

今回新しく出てきた棟札は寛永年間以降明治までの屋根修繕の棟札でしたので、当社の江戸時代から明治時代までの修繕記録の空白が埋まったことになります。

また今回発見された棟札の1枚に「彩色修復」(文政2年《1819》)の記載がありました。

「えっ?玉田神社って朱塗りの神社?」もちろん現在の社殿は彩色は施されていません。

ということは、1819年の頃の玉田神社は赤い神社だったの?という疑問がでてきました。

当社に残されている古文書に「御恐奉願口上覚」(文久3年《1863》)には、度々の氾濫による洪水で社殿が破損して修繕費用がかさむことを訴えて援助を願いでて、その際、八間社の本殿を四間社に縮小すると記載されています。

以上のことから想像すると、1624年(寛永元年)に神社が再建されて、1863年(文久3年)神社を縮小して改修されるまでの間、1819年(文政2年)の棟札にあるように、当社の社殿は八間社の朱塗の社殿であった可能性が考えられます。

今回の令和大改修で屋根を銅板葺に葺き替えるため屋根組がむき出しになった際に、専門家の方が古い木材(寛永期)と新しい木材が混在して、屋根の組み方から十分に縮小された痕跡が見て取れるとのことでした。

そして今回の写真の最後の一枚は、内陣御扉の下の高さが約40㎝ほどの隠れスペースを収めた写真ですが、なんと朱に塗られた木材が写っていました!!!

私の頭の中に八間社流造の朱の社殿が浮かび上がったことは言うまでもありません。

近いうちにゆっくりと出てきた棟札の確認をしたいと思います。