方除け・火難除けの社

玉 田 神 社


 

⌛It's New

御札、御守、御朱印、御朱印帳の郵送による頒布を始めました。 

 

2月の御朱印の郵送頒布を始めました【05.01.31】

 

2月の御朱印と節分祭のお知らせ【05.01.31】

 

厄除けお守りを奉製しました【05.01.01】

 

◯オリジナル御朱印帳「第2弾」のお知らせ【04.09.18】

 

令和4年「夏詣」フォトギャラリー【04.09.18】

  

勾玉お守りを奉製しました。03.03.01 


節分祭のお知らせ

とき:令和5年2月3日(金)午後2時より

◯神事の後、近くの御牧こども園の年長組のお子さんが豆撒きに来てくれる予定です。

◯福豆の授与は午後1時から本殿前で行います。(無料)


オリジナル御朱印帳第2弾頒布のお知らせ

お陰様をもちまして当社オリジナル御朱印帳の第1弾「シルバーの御朱印帳」は全て頒布させていただきました。

今回奉製いたしましたのは、第2弾として同様のデザインですが、カラーが「ゴールド」となります。

サイズも前回と同じで大判です。

前回同様に表紙裏には「巡拝の安全守護の印」、第一御朱印として今回は「銀の御霊験名馬火鎮御朱印」を押印しております。

また、満願された際にお申し出いただければ、裏表紙の裏に貼っていただく「金の御霊験名馬火鎮御朱印」を差し上げております。

初穂料:1,500円


国登録有形文化財

四間社流造
玉田神社本殿正面

本殿

四間社流造、切妻造 銅板葺 

天正14年(1584)再建造営

寛永元年(1624)改修

文久3年(1863)改修

令和2年(2020)改修

 

平成30年3月27日

国の登録有形文化財に登録

(登録番号 26-0562号)


一間社流造
末社「市杵神社」

末社・市杵神社

間社流造、切妻造 柿葺 

 

江戸時代初期の建築様式

 

平成30年3月27日

国の登録有形文化財に登録

(登録番号 26-0563号)


一の鳥居

明神型石鳥居

 

文化年中(1804-18)建立

 

平成30年3月27日

国の登録有形文化財に登録

(登録番号 26-0564号)


二の鳥居

明神型石鳥居 

 

享保年中(1716-36)建立

 

平成30年3月27日

国の登録有形文化財に登録

(登録番号 26-0565号)

宮座

玉田神社の氏子地域には八つの当座があり、それぞれ氏神に捧げる御神宝を預かっている。

また、神事における重要な役割を担っており、秋の祭礼にはその年の当家が御神宝を抱いて社参します。

 

・本当座(東一口)

・御幣座(東一口)

・御箸座(東一口)

・玉弓講(坊之池)

・森当座(森)

・北相島当座講(相島)

・中相島当座講(相島)

・明主座(中島)

 

 

当家になると家の床の間に祭壇を組み、御神宝をお祀りします。

本当座床の間
東一口・本当座
御幣座床の間
東一口・御幣座
御箸座床の間
東一口・御箸座

東一口の3当座(本当座・御幣座・御箸座)がおこなう「とんど」は、京都府無形民俗文化財に指定されています。

--画像「広報くみやま」--

玉田大明神火難除       御霊験名馬火鎮由来

玉田大明神火難除御霊験名馬火鎮由来
石碑

聖武(しょうむ)天皇の御代(七二四~七四九)、天皇から橘諸兄公に詔勅があって、御牧(みまき)の馬を召しださせ給うた。橘諸兄公は勅を奉じて、この御牧の地より一頭の名馬を求めて、天皇に献上した。天皇は馬を叡覧されて、「誠に希代の名馬である。」と感激され、橘諸兄公の忠誠を讃えて、左大臣橘諸兄として最高の貴族に列せられた。
 ある時、この馬が三日間いななき続けた。人々は不審に思い、何か不吉なことが起こるのではないかと心配した。案の定、三日後に御所の内裏の外で火災があった。馬は炎の上がるのを見て、猛ること甚だしかったが、やがて火は鎮まり馬もおとなしくなった。
 しかるに幾日も経たない内に、全く前と同じように、馬が三日間いななき続けた。そして三日後再び内裏の外で火災が起きた。すると馬は、くつわを強く繋いであったにも関わらず、くつわを抜いて御厩舎を飛び出してしまった。人々はあわてて止めようとしたが、手の付けられない勢いで紅蓮(ぐれん)の炎の中に飛び込んでいった。すると不思議なことに、火はことごとく鎮まっていった。人々は何としたことかと感心して騒いでいると、しばらくして、馬は煙の中より現れると、静かに御厩舎の中に入っていった。                  このことが聖武天皇に奉上されると、天皇は「誠に希代の名馬である。」として、詔勅により『火鎮(ひしずめ)』と名付けられた。そしてこの馬は、天皇が深く信仰されている玉田大明神が召させ給うた神馬であろうとして、橘諸兄公に勅されて、元の御牧の地に返された。御牧郷の人々は、この話を伝え聞き、奇特な名馬であると讃えて、火難除(かなんよ)けの神馬として大切に扱った。そして、やがて年を経て名馬『火鎮』は死んでしまった。
 御牧郷の人々は、名馬にふさわしい立派な塚を造り、馬見塚と名付けて、『火鎮』の亡骸を丁重に葬ったと伝えられている。